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ラファエロ・サンティ

 盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家。
ミケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練して、女性的で優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。

その資質は彼の死後も賞賛され、模倣された。

ジョルジョ・ヴァザーリによれば、幼少期にペルージャのピエトロ・ペルジーノに師事したことになっているが、ペルジーノに大きな影響を受けたのは事実であるものの、今日ではこの逸話は否定されている。

1501年に、チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会祭壇画(今日では断片のみが残る)を完成させ、1504年にはアルビッツィーニ家の発注による『聖母の結婚』を作成した。

この頃の作品としては、ほかに『騎士の幻想』などがある。

これらの作品はペルジーノの作風を残してはいるものの、すでにそれを完全に超越している。

1504年、彼はフィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノに滞在して作品を残した。

フィレンツェ滞在中に、『マッダレーナ・ドーニの肖像』、1507年には『美しき女教師』、1508年にはサント・スピリト教会の『天蓋の聖母』を作成した。

この頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式を吸収し、フラ・バルトロメオの影響を受けて力強く堂々としたものに変化していた。

ドナト・ブラマンテの勧めで1508年にローマを訪れた彼は、教皇ユリウス2世に雇われ、1509年からヴァティカーノ宮殿の署名の間(特に有名なものとしてフラスコ画『アテナイの学堂』が挙げられる)、ヘリオドロスの間を手がけた。彼は、ローマで自らの様式を開花させ、1512年頃と推測される『サン・シストの聖母』をはじめとする傑作を数多く作成した。

また、同時期にサン・エリジオ・デッリ・オレフェチ教会の設計を行い、建築家としての経歴もスタートさせている。

1512年にはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂、1515年にはパラッツォ・ブレッシャーノ・コスタ、1517年にはパラッツォ・パンドルフィニの設計に携わった。

 彼は、従順で仕事をそつなくこなしたので多くのパトロンを持ち、1512年には、ユリウス2世の『肖像』、銀行家キージ家の依頼で『ガラテイアの勝利』、1517年には教皇レオ10世とジュリオ・ディ・メディチ枢機卿、ルイージ・ディ・ロッシ枢機卿の『肖像』を仕上げた。

1514年、ブラマンテの死によって、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしたが、1520年、誕生日でもある日、37歳の若さで亡くなった。

ヴァザーリは性愛の楽しみが過ぎたためだ、と書き残している。

墓は、パンテオンにある。


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サンドロ・ボッティチェッリ

ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ (Alessandro di Mariano Filipepi) といい、ボッティチェッリは兄が太っていたことからついた「小さな樽」という意味のあだ名である。

ボッティチェルリ、ボッティチェリ、ボティチェリなどと表記されることもある。

フィレンツェ派の代表的画家。

フィリッピーノ・リッピに学び、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。

 特に『春(プリマヴェーラ)』と『ヴィーナス(ウェヌス)の誕生』の作者として著名である。

異教的、官能的なテーマの絵画であり、フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を告げるものである。

メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めると、ボッティチェッリも心酔し、神秘主義的な宗教画に転じる。

しかし、この時期以降の作品は生彩を欠くとして評価は高くない。1501年頃には制作を止める。

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